「幸せになりたい男」


 遠藤洋介は、日常に退屈していた。大学を出て就職した商社系企業は1
年で退社し、現在はアルバイトをしながら一人暮らしをしている。引越し
屋、ガードマン、コンビニ定員と渡り歩き、今はレンタルビデオ屋の定員
だ。時給900円で週5日、月あたり15万弱という稼ぎだ。一人で暮ら
していく分には、特に不自由しない。ただ毎日、アルバイトに出かけては
帰宅し、テレビを見たりTVゲームをしたりして時間を潰し、就寝すると
いうサイクルを刻んでいる。
 しかしこんな単調な生活を2年近くしてきた今になって、生きている事
の意味みたいなものに疑問を持つようになっていた。どうしても、自分が
社会の本道からドロップアウトした堕落したグループであるという意識も
付きまとった。友達も何人かいるが親友と呼べるほどの者はおらず、飲み
会の席などでも、軽い疎外感が楽しさに同居した。
 このまま大して楽しくない生活を、一生続けるだけなのか? 自分は、
いったい何のために生きているのだろうか?
 遠藤は次第に、自分が不幸であると認識し始めていた。


 遠藤にちょっとした事件が起こった。送別会だ、病気だと出費がかさみ、
現金がなくなってしまったのだ。月末の給料日まであと7日、残り150
0円で暮らさなければならない。遠藤は少し迷い、100円ショップのカッ
プメンでこの場を凌く事に決めた。一日2食なら、給料日まで食い繋げる。
 7日間、遠藤は予定通り凌ぎきった。空腹と味気なさは思ったよりも辛
かった。あんなに虚しいものだとは想像していなかった。最後の方はカッ
プメンの味にも飽きて、本当に不味かった。
 遠藤が劇的な感動を覚えたのは、入った給料で早速食べた松屋の牛丼の
美味さだった。その味たるや、今まで食べた何よりも美味しく感じられ、
本当にあの松屋の牛丼かと疑うほどの衝撃だった。肉の甘味とご飯の香り
に、身体が歓喜した。
 あれだけワビシイ食生活を送っていると、松屋の牛丼もこの感動になる
のかと、遠藤は変な感心をしてしまった。そしてこの感動が、最近味わっ
た中で一番大きいものである事に気付き、苦笑せざるを得なかった。
 遠藤は考えた。最近、自分は何となく不幸な気分になっていたが、松屋
の牛丼でこんなにも幸せな気持ちになってしまった。その前に送ったワビ
シイ食生活とのギャップで、そのように感じられたのだ。
 やがて遠藤はある決意をした。
 よし、この手でいこう!


 その日を境に、遠藤の生活が変わった。
 空腹の時の食事が美味しいのは知っていたので、毎日の食事のうち1回
は必ず極度の空腹時に行うようにした。これが本当に美味しい。あの松屋
の牛丼ほどの衝撃はないものの、幸福感を得るためには充分だった。お腹
を空かせて、お腹いっぱいに食べる。そんな幸せが、必ず一日一回訪れる
のだ。
 毎日必ず幸せな気分になる時間が訪れる。これは素晴らしい事ではない
だろうか。遠藤は、我ながら良いアイデアだと思った。退屈で刺激の少な
かった毎日が、食事という楽しみで、彩を得たようだった。

 遠藤はフト、自分の行動を、野球で言う緩急の差だなと思った。いくら
球の速いピッチャーでも、速球ばかりではバッターの目が慣れ、打たれて
しまう。ここにスローカーブやチェンジアップなどの遅い球を混ぜる事で、
速球をより速く感じさせられる。
 空腹(スローカーブ)があるから、食べる事(速球)がより美味しく感
じられるのだ。

 遠藤は人生を楽しむという事について、積極的に考えるようになった。
もっと他にも、工夫次第で幸福感は得られるはずだ。
 次に遠藤が実践したのは、TVゲームの制限だった。1日1時間に決め
たのである。そうすると、TVゲームがより楽しくなった。毎回飽きる前
に終わるので、プレイが本当に楽しい。次のプレイが待ち遠しくなって、
ワクワクする。このワクワク感もまた、楽しかった。
 他にも、遠藤は色々と工夫した。ビールを飲む前に外を走って脱水状態
になったり、今まで毎日していた自慰行為を3日に1回にした。ビールの
美味しさはこの世のものと思えず、自慰行為の快感は数段増した。走る事
は健康に良いらしく、体調が良くなった。
 風俗はお金がかかるので、2月に1回の楽しみにした。これは行く数日
前から顔がニヤけてしまう。風俗に行く1週間前あたりから禁欲生活をし
ておくと、まさに桃源郷だった。
 睡眠不足が続いた後の長時間の睡眠も、何とも言えない安らぎと快感で
あったが、これは健康に悪いので2回やってやめにした。
 とにもかくにも、遠藤は毎日の生活を楽しむコツを掴み、次々に実践し
ていった。
 我慢しなければならない苦痛はあったが、そんなものは得られる満足感
に比較すれば何てことはなかった。いやむしろ、その後に待っている喜び
を想像すれば、苦痛さえ快く感じた。 


 案外、人間の幸福なんてこの緩急の差次第でどうにでもなるのではない
だろうか?
 お金持ちが何不自由なく暮らしている日常よりも、食べるのに困るほど
の貧困した人がご馳走にありつけた時の方が、主観的な幸福感は絶対に大
きいはずだ。お金持ちにとって幸福と感じない日常が、貧困した人にとっ
てはこの上ない幸福となり得るのだ。
 同じものに対するこの感じ方の差は、緩急の差だ。世の中の多くの人は、
今より良い想いをしたいと願い、行動する。親しい友達がいなければ、友
達が欲しい。恋人がいなければ、恋人が欲しい。旅行に行けなければ、旅
行に行きたい。もっと美味しいものが食べたい。もっと名声が欲しい。
 これはより速い速球を投げようと頑張っているようなもので、際限のな
い欲望の連鎖を招く。満たされていないところばかり焦点が合って、得た
はずの幸福は日常化して何も感じなくなる。そしてその得たものも、普遍
とは限らない。何と愚かな行為であろうか。人生であろうか。
 満足感を得るために、より速い速球は必要ない。スローカーブを混ぜて
やれば済む事だ。そうすれば、日常は輝き出すのだ。遠藤はこんな風に考
えていた。
 そして遠藤は、自分を人生を楽しむ達人だと自負するようになった。


 5年後、遠藤は寺に出家し、厳しい規律による生活を送っていた。たま
に抜け出してする"息抜き"が、これまた格別だった。その幸福感と満足感
は、あの松屋の牛丼の比ではなかった。
 人間の欲望とは、やはりエスカレートしていくものらしい。


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