「刺し箸論争」


 男の箸が、サトイモの煮物に刺さったその時、戦いは起こった。

「刺し箸はやめてって言ってるでしょ!」
 半分うんざりしたように抗議したのは、同棲中の女性。
 同棲してまだ1ヶ月足らずではあるが、女はこの男のルーズな性格
に呆れかえっていた。
「別に良いじゃないの」
 男はのほほんと抗議する。そののほほんさが、女を更にイラつかせ
るのはいつもの事だ。
 この男、同姓生活を始めたものの、目の前の女の神経質さを少し窮
屈に感じ初めていた。
 外から帰ってきてバックをベッドに置いた時に、こっぴどく怒られ
た記憶は新しい。
「良くないよ! 不愉快だからやめてって言ってるの!」
「何で不愉快なの?」
「不愉快だから不愉快なの!」
「ちゃんと理由を説明してくれよ」
 なんて調子で、男はいつものらりくらりと攻撃をかわすのであった。
 そう、へ理屈男なのである。
 通常であればこのままなあなあに終わるであるが、女の忍耐にも限
界がある。やがて、大論争に発展してしまったのだった。


 既に男も女もヒートアップしていた。
「いいか? 箸っていうのはな、挟む、切るの他に、刺すという機能
が形状的に備わっているんだよ! みすみすそのうちの"刺す"を捨て
るのは機能美に反するだろ!」
「マナーはね、そういう問題じゃないの! 一緒に食べてる人がいる
んだから、周囲にも気を使わなくちゃいけないの!」
「だったら、お前が俺に気を使ってガマンすれば良いじゃないか」
「何で私がガマンしなくちゃいけないのよ! マナー違反をしてるの
はそっちでしょ!」
「美味しく食べられればそれで良いんじゃないのか? お前の料理美
味いしな」
 男は機嫌をとってみた。こんなもので機嫌が直るには、タイミング
がもう遅すぎた。
「あなたがマナーを守ってくれないと美味しく食べられないのよ! 
食事作法はね、皆んなで美味しく食べるためにも必要なの!」
 女の育った家庭は堅い部類に入る。食事の作法もさる事ながら、髪
の色を変える事も許されなかったし、門限を破った時の怒られ方も凄
まじかった。当然、男との同棲など許されるはずもないが、大学進学
のため単身上京した身であるため、親の目など盗み放題である。
 しかし、感性に叩き込まれた幾つかは、忠実に守ってしまうものだ。

「マナーマナーって言うけどさ、マナーってどの程度大切なものなん
だよ?」
「??・・どの程度って!?」
「このサトイモの煮物があるだろ、つかみ難いじゃん。刺した方が楽
じゃないか! マナーってそんなに大事なのかよ?」
「大事なの!」
「おいおいよく考えてみてくれよ。刺し箸を使う時にはよ、つかみ難
いもんを取る時くらいだろ?」
「それが?」
「挟んでとろうとしたら、たまに滑って落としたりするじゃないか。
そっちの方がよっぽど見苦しいだろ?」
「上手く挟めるように練習すれば良いだけでしょ!」
「まあ、個人レベルではそういう意見も一見正当性があるように聞こ
えるな。けどよ、物事はもっと大きな目で見るべきだよ」
「・・・・バカみたい」
「まあ聞けよ、いいか、滑って落とす先が皿の上や茶碗の中だけとは
限らないんだよ。中には床に落とす場合だってあるわけだ。床に落ち
た食べ物は無駄になるじゃないか! 日本全国規模ではそういう事も
確実に起こっているわけだ」
「・・・・」
「食べ物を余計に無駄にしてしまう可能性があるマナーであれば、む
しろマナーの方が間違っていると判断する方がまっとうだろ? もし
も違うと言うなら、この飽食時代のおごりっつうもんだ」
 男、優勢である。陰で「へ理屈王」と称号を持つだけはある。
 男の育った家庭は、特にルーズという程でもなかった。多少アバウ
トぎみくらいだろうか? 元来、何故か理屈っぽく、理屈に合わない
と判断するものを認めたがらない性質の持ち主だ。

 女は、もう「刺し箸」などはどうても良くなっていた。とにかく、
目の前にいるムカツクへ理屈男を凹ませたくて仕方なかった。議論は
さほど得意ではない。感覚で生きているタイプだ。だが、その感覚が
男をやっつけろと急かす。
「でも、日本の歴史や伝統も大切にしなくちゃいけないんじゃないの?
文化を守る事も大切だよ」
 無意識に、「歴史」「伝統」「文化」という言葉を選択した。これ
は強い。これらは、無条件に尊重しなければならないという先入観が
広く浸透している聖域みたいなものだ。
 但し、相手が「へ理屈王」でさえなければ。
「それじゃあ、日本の官僚組織と同じじゃないか! 実際にどのよう
な弊害があろうとも、変化そのものを嫌うんだよ」
「それとこれとは話が違うでしょ!!」
「喩え話なんだから違って当然だろ? 解り易く説明しただけだ。お
前はあれかい? 伝統や文化を守るためだったら、食べ物が少しくら
い無駄になっても構わないとでも言うのかい?」
 男は小馬鹿にしたような目つきで女の反応を覗った。
 女は完全に引いた。
 何故今目の前にいる男を好きだったのか、不思議で仕方がなかった。
悔しくて悔しくて、泣きそうになった。こんなへ理屈男のせいだと思
うと、余計に悲しくなった。
 男はその変化に気付かない。
「俺だったら、そんな文化は嫌だね。余計に食べ物が無駄にされるマ
ナーや文化だったら、それ自体が間違っているんだ。そうと知ってい
ながら尚マナーが大切だと言うなら、物事を表面的しか捉えていない
証拠だよ。物事は様々な価値を本質的に考慮して、そのバランスの上
で決定していくべきものなんだ。間違っても、背景の理念や本質を無
視してマナーそれ自体に価値を持たせるべきじゃない。いや、持たせ
ても良いけど、その場合もきちんと損なわれる価値がどの程度あるの
かという視点を忘れてはいけないんだよ。何度も言うようだ・・・」
「うるさい!!!」
 !?
 女の鋭い恫喝が、男を止めた。
 その声が涙混じりだった事に、男は気付いた。
 男は、興奮状態が一気に冷めていくのを感じた。

 この後、「刺し箸」はめでたく禁止になったのだった。


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