「偉大な男」


 混雑した下町の雑踏。
 比較的大きな通りに面した商店街。
 道行く人々も、どこか垢抜けない。
 やや殺伐とした表情の主婦も、のどかさを残していた。
 薄汚れたトラックが耳障りな低重音を轟かせ、通り過ぎていく。

 大きな通りに繋がる小さな横断歩道付近は、甘栗の臭いがする。
 甘栗を主食にした鳩が信じられない太り方で、なんともユーモラ
スだ。
 横断歩道を、老婆が前押し荷車の勢いを借りて歩いてきた。
 杖の代わりにこれなら、荷物も運べるし一石二鳥だ。
 信号は点滅を始めた。
 老婆は老婆なりに急ぐ。
 かろうじて、点滅中に渡り終えそうだ。
 男が現れたのは、その時だった。

 黒を基調にしたスーツ、小ぶりのサングラス。
 左手中指と人差し指の間に煙草を挟み、白煙が大気に混じる。
 右手はズボンのポケットに無造作につっこまれていた。
 その歩調はまるでストリートファッションのショーを見るかのよ
うにワイルド&クール。

 男は横断歩道にさしかかった。
 信号は赤。
 だが、男は歩みを止めない。
 出ようとした白い軽トラックが、男の進行方向斜め横で急ブレー
キを踏んだ。
 男は一瞥も与えない。
 軽トラはじわりじわりとプレッシャーをかける。
 男の華麗な歩みを、崩すことはできなかった。
 そう、男はあくまでもワイルド、そしてクール。
 軽トラの背後に車が詰まり始める。
 男が目の前を通り過ぎた途端、軽トラは猛スピードで大通りに消
えていった。

 男が横断歩道を渡り終えようとしたその刹那、男の左腕は優雅な
軌跡を描いて目線の位置まで引き上げられた。
 これから協奏曲の指揮でも始まるのかと、錯覚する人間もいるか
もしれない。
 毅然とした表情は、それほどまでに自信と誇りに溢れていた。
 軽やかな指先は、使命を終えた煙草に繊細な落下曲線を与える。
 アスファルトに舞い降りた煙草は、主を恨むかのように最後に身
を一よじりさせ、静止した。

 前を行く老婆を追い越し、雑踏の指揮者は消えていった。
 おそらく、この世のどのような規範も、この男を縛れまい。

 白煙を上げる残されたそれは、思いの他短かった。
 もしも一部始終を目撃した者がいたならば、心に温かい何かを残
したかもしれない。


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