「いちろう」
村田一郎は、マリナーズのイチローをとっても応援していた。同じ名前という事
で愛着が沸いてくるのも大きいが、それ以上に、一郎には切なる思いがあった。
子供の頃、一郎は友達が羨ましかった。幸男、高志、恵美、愛子…… 他の人の
多くは、親から想いを込めて付けられた名前だ。幸せになれるように、高い志を持っ
た人間になるように、美しく恵まれるように、愛のある人生を送れるように。なん
と意味のある良い名前なのだろう…… それに引き替えて一郎は、単に一番最初に
生まれたからという安易な発想だ。決して、何でも一番になれるように、などとい
う想いが込められているはずもない。
一郎には弟がいない。だから次郎(二郎)がいない。その代わり妹がいて、桜と
名づけられている。4月生まれで桜の季節だから、桜なのだろう。安易には違いな
いが、一郎とは雲泥の差だ。もしも次郎、三郎といたら、同じ境遇の人間がいつも
すぐ側にいるのだから、今よりも気にならなくなっているかもしれない。4番目の
男の子が留吉なんてなっていた日には、こいつを思えば自分はまだマシだと思えた
に違いない。これは安易なばかりではなく、完全に親の家族計画上の都合だ。
一郎は、ニュースで犯罪の報道がされると、一種のやり切れない気持ちというか、
胸がスク気持ちというか、複雑な心境になる時が多い。孝良という名前の男が恋愛
上の逆恨みで女性を殺害した事件では、孝行して良い人間になるようにという想い
を込められて名づけられたというのに、お前は何をやっているんだ……と思ったも
のだ。
しかしイチローが野球の世界で活躍して有名になって、状況は変わった。一番最
初に生まれた男だからと、安易に名前を付けられた人間が、大成功をしている。マ
リナーズに行っても、大活躍だ。もはや世界の一流選手で、オールスターのファン
投票でもトップになるような大スターだ。一郎はその活躍を見ているうちに、段々
と自分の名前が縁起の良いもののように思えてくるようになった。一郎であるとい
う事に、ほのかな誇りを感じるようにもなった。何となくだけれども、他人に自己
紹介した時のリアクションも変わった気がする。たまに、イチローの話題を振って
くれたりもする。自分の名前から、あのイチローが連想されるのかと思うと、何と
も気分が良かった。
一郎はそんなわけで、他の名前の人とは違った感情を秘めながら、イチローを強
く強く応援しているのだ。
自分の子供にも、スター選手と同じ名前をつけたい。一郎がそう考えるのは、当
然と言えば当然の展開だった。成功してもらいたいという気持ちを込められるし、
将来その名前を誇らしく感じてくれるに違いない。縁起だって良いではないか。
やがて一郎も結婚して、男の子が誕生した。名前を優太と付けた。その年のオリ
ンピック、体操・種目別で金メダルを獲得した山口優太から取った名だ。一郎は良
い名前が付けられたとご満悦だった。金メダルを取った日と産まれた日が重なった
のも、何か縁を感じる。一郎は息子の優太を想う度、笑みがこぼれてきてしまうの
だった。
しかしまさかこの時、山口選手がドーピング検査で陽性反応となり、金メダルを
剥奪されてしまうとは、一郎には予想できるはずもなかった。
月日が流れ、優太も中学生になった。スクスクと育ち、体格の良い思いやりのあ
る子になった。将来の夢は、弁護士になって弱い人達を助けたいと言っている。ま
あ、ついこの前は警察官だったので、またすぐに変わるかもしれない。
優太は父親から度々、「優しくて芯の太い人間に成長するように、お前の名前を
つけたんだ」と言われていた。優太はその話を聞く度、愛情を感じながらも、どこ
か照れてしまう。しかししつこく同じ事を言うものだから、実は最近では煩わしい
とも感じ始めている。これは、父親には絶対に内緒だ。
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