「不倫知的不協和」


 不倫って悪い事じゃないの? そりゃ悪いに決まっている。字を見たって明白だ。倫
理に反すると書くのだから、悪くないわけがない。結婚している相手や身分での恋愛を
”道徳に反したもの”と呼んでいるのだ。「不倫ってさ、悪い事じゃないよ」なんてい
うのは、「道徳に反するのってさ、悪い事じゃないよ」と言っているのと一緒で、大馬
鹿者の意見なのだ。アウトドア派の引きこもりくらい、辻褄があっていない。
 しかしフリンっていう言葉の響きも良くない。音として、美し過ぎる。何度か声を出
してみるとよく解る。「フ」と静かに繊細に始まって、「リン」と微妙に響きながらスッ
と抜けていく。言葉として使っているうちに、何となく美しいもののように思えてきて
しまうではないか。美しいと認識したら、人間はそれに肯定的になるものだ。もしも仮
の話で、不倫をフリンと読まずに、フトンと読んだらどうだろうか。フトン、フトンと
使っているうちに、何となく野暮ったい粋じゃない行為のように思えてきてくるかもし
れない。布団よりもベッドが格好良く思われているのも、案外こんなところも大きいの
ではないか。ベッドの響きは重厚で、どこか高級感がある。フトンは何か間が抜けてい
る。
 なんていう事を、沙織は考えていた。沙織は26歳の主婦で、結婚2年目である。子
供は欲しいのだけれどまだ授からず、仕出弁当の盛り付けのパートで得た収入は将来の
出産・養育費として貯蓄している。旦那は零細企業のサラリーマンで、営業部長の地位
にいる。まあ全社員4人の中での営業部長だから、下にいる人間よりも上にいる人間の
方が多い。目下、たぶん不倫中だ。
――何なのよあなたという人は!?
 女性の声にこもったただならぬ剣幕に、沙織はテレビに目を移した。昼頃はいつも点
けっぱなしだ。たまに見る事もある連続ドラマだった。主人公の旦那が不倫しているの
は知っていたが、この様子だとバレたのだろうか。クッションやら枕やら、ヒステリッ
クな罵声を浴びせながら旦那に投げつけている。旦那は「悪かった」「落ち着け」と平
謝りだ。
 私もこんな風に出来たら良いのにと、沙織は思った。旦那の不倫疑惑が発覚したのは、
もう5ヶ月も前になる。相手は取引先の奥さんらしい。沙織も当然、猛抗議した。しか
し旦那は知らぬ存ぜぬ、誤解だの1点張り。状況証拠は揃っているものの確たる証拠も
なく、沙織は引下らずを得なかった。信じたいという気持ちもあったのが災いした。そ
のままズルズルと、何となくその話題はタブーのような空気を作られながら、今に至る。
会社帰りに飲みに行って、あまりお酒くさくなかった日はあやしい。健康に気遣って、
お酒を控えめにする時があるそうだ。出張する日も増えた。
 沙織の疑いは8割程度だった。残り2割は彼を信じている。とは言っても、そのうち
のまた半分は自分で自分に言い聞かせて稼いだものだ。「夫婦に信頼関係がなくなった
ら終わりだ」とまで言われては、信じなければ悪いみたいではないか。ただの取引先の
奥さんが、ハート記号付きで「おやすみなさい」とメールしてくるのだろうか。携帯に
電話があった時に、たまにこちらの様子をチラっと窺うのは何故なのだろう。スーツに
付いた香水の移り香は、本当に電車の中で? あああ、思いっきり殴り飛ばしてやった
ら、スッキリするんだろうなあ。
 以前弟にこの件を相談したら、「ちょっとした浮気なんて、遊びみたいなもんだよ」
とか「あまり大袈裟に考えるな」とか「我慢するのも女の人の役目だ」みたいなアドバ
イスをされた。どうやら、不倫なんて大した問題じゃないと言いたかったらしい。そう
言えば昔、浮気と男の甲斐性との関係性について、非論理的な説を煌々と語っていた記
憶がある。彼にとって、それは悪い事じゃないようだ。相談する相手を間違えた。
 ドラマの中で、主人公は家を泣きながら飛び出していった。こちらの現実世界は夏の
終わりだが、ドラマの中では猛雪が降っていた。旦那が追いかけようとしたところで、
宣伝に入った。柔軟剤が入った洗濯洗剤を使うと、洗濯物が洗うだけでソフトに仕上が
るらしい。どこかで特売でも始まったら、一回試してみよう。


「不倫って言っても、結局はただの自由恋愛じゃない。結婚しているからといってさ、
恋愛しちゃいけないなんておかしくない? 明治時代じゃないんだから」
 智美はこの言葉を聞いて、感心した。確かに、結婚したら恋愛しちゃいけない理由な
んてないように思える。最近は簡単に離婚するような世の中だし、結婚したからといっ
て人生が安泰になるわけでもない。今までは、漠然と不倫はいけない事くらいにしか考
えていなかった。
「そうだよね。人生は一度きりだし、恋はずっとしたいよ」
「そうそう、夫婦は夫婦、恋愛は恋愛で分けるのも、一つの選択かなってあるな」
 さすがは沙織だと、智美は思った。沙織は学生時代の頃から、ちょっとハっとするよ
うな発言をしていた。当時から語り好きだった。
 テーブルに、雪だるまの形をしたかわいいケーキが運ばれてきた。感じの良いウエイ
ターで、「お待たせしました」の声もちょっとかわいい。大学生のアルバイトだろうか。
智美に見つめられているのに気づいて、ウエイターは愛想笑いを返す。
「ほんとにそうだよね。私は結婚はまだだけど、一生旦那オンリーかと思ったら、ゾッ
とするかも」
 沙織は得意な顔で、「わかる〜」と微笑んだ。紅茶をティースプーンでかき混ぜなが
ら、言葉を続ける。
「恋愛感情って、結局冷めちゃうもんね。後は家族みたいな感じになっちゃうっていう
のかな。お互いに外で恋愛して、夫婦は生活のパートナーって割り切れれば、一番良い
のかも」
 沙織と智美の不倫談議は、この後1時間にも及んだ。大声で行われたものだから、狭
い店内、どこにいてもまる聞こえだった。
 ケーキを運んできたウエイターは、そういう考え方もあるんだなと思った。過去に一
度した人妻との不倫に抱いていた漠然とした後ろめたさが、少し軽くなったような気が
した。


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