「本質的欲求としての善」


 善と悪の概念があります。何が善で、何が悪なのでしょうか。一般的な傾向としては、

・創造する
・改善する
・誰かが喜ぶ・楽しむ

 といったものが善とされています。一方、

・破壊する
・悪化する
・誰かが悲しむ

 といったものが悪とされています。

 単純には、善のものが多ければ色々と創造・改善され、喜びや楽しみのある良い社会に
なるわけです。逆に悪のものが多ければ、色々と破壊・悪化され、悲しみに溢れる良くな
い社会になるわけです。
 人間は社会的な動物で、社会を形成してお互いに協力しながら生活をしています。善と
悪の感覚は、この人間が持つ社会性に起因するのではないでしょうか。人間がもつ感情の
優しさや思いやりも、社会性の感覚です。そのような感情を持つ事により、人間はお互い
に助け合えるのです。
 善とは、人間の社会性に起因する本質的欲求なのではないでしょうか。自分や自分の子
孫が有利に生存・生活していくためには、より良い社会である方が望ましいのです。つま
り善の欲求は、人間が生まれながらにして持っている本質的なものの一つなのです。だか
ら人間は、善行をすると気分が良いのです。ボランティア活動や慈善事業などが成り立つ
のです。

 ここで興味深い事例を挙げます。悪とされる行いをする人の話は、マスコミを通じて頻
繁に聞けます。人によっては、直接聞く機会を多く持っているでしょう。その話の中で、
彼らが自分を懸命に正当化していた記憶がきっとあると思います。例えば街を落書きする
若者が「自己主張だ」と善のイメージでその行為を分類していたり、「誰にも見つからな
ければ、悪い事も悪い事にならない」と善悪の定義を自分達で作っていたりします。これ
は自分を悪の側に置きたくないが故に発言され、自分をそのように納得させているのです。
 人間は本質的欲求として自分を善の側に置きたいと欲し、悪の側に置きたくないと欲す
るので、悪の側にいる事はストレスになってしまいます。何らかの欲望に負けて悪い行い
をしてしまったら、その欲望は確かに満たされますが、善の欲求が満たされていない・傷
ついた状態になります。このストレスを軽減するために、彼らは<自己正当化>をします。
自分は悪くないと自分に言い聞かせて、ストレスから自分を守るのです。
 しかしそんな行為で解決するほど、この善の欲求は簡単で底の浅いものではありません。
意識の力でいくら誤魔化そうとも、本当はそれは悪いものであると心は認識しています。
そもそも誤魔化すという行為自体、本当は悪いものだと気づいている証明です。そのため、
自分を悪の側に置くストレスは潜在化しているだけで、確実に精神にダメージを与えてい
きます。本人も半ば気づかないうちに、そのストレスは精神を病ませ、人間性を蝕んでい
くのです。
 
 善の欲求も悪の欲求も、人間にとっては生まれながらの本質的なものです。人間は他人
に迷惑をかけてでも自分の利益を得たいと思うものですし、時にはサディズムや破壊衝動
に囚われる事もあります。しかし悪の欲求は満たされずとも、自分の精神は破壊しません。
ただ欲求不満になるだけです。完璧に悪い事は一切しないというのもまた難しい話なのか
もしれませんが、善の側に自分を置くように生きていった方が、むしろ楽な生き方と言え
るのではないでしょうか。悪の側に自分を置いたストレスの中で生きていく方が、苦痛に
溢れた棘の道を行く生き方になります。
 人間はそれほど社会性の性質が強く、善を求め、悪を嫌うのです。
 


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