「価値観の悪平等」


 日本はとかく、価値観の押し付けが激しい風潮にあった。
 価値観の多様性を認めず、特定の模範回答を期待され、その型に
はめようとする圧力があった。
 今も、この傾向は残っている。
 厳密に言えば、この側面がない社会はない。
 適度にという前提つきで、社会には必要な部分でもある。

 しかし、その悪影響の部分が大きいと、良い影響の部分は見失い
がちになる。
 日本の場合は、さんざん「没個性」や「息苦しさ」がアピールさ
れ続け、いつしかこういった弊害だけに焦点が合うようになってし
まった。
 写真でも肉眼でも、焦点を合わせた部分は良く見えるが、合わせ
ていない部分は見え難いものだ。

 いつしかその対策として、「価値観を平等にしよう」という方向
に歩み始めた。
 数年前、よくテレビなどでも、
 「人間には色々な考え方があるから、どれが絶対に正しい事なん
てないし、価値観は平等だと思う」
 なんて趣旨の発言がさんざんされていた時代があったのを覚えて
いるだろうか?
 価値観の絶対的な優劣を否定する事によって、価値観の多様性を
確保しようという試みである。
 優劣がなくなれば、型にはめようとする圧力もなくなる。
 この狙い自体は、大いに成功した。

 しかし、この価値観の多様性の獲得の代償として失ったものは大
きかった。
 日本には国家的な宗教がない。
 社会規範は、他人(周囲)の評価に頼る部分が大きかったのだ。
 社会が絶対的な正しさをなくしてしまった事は、この「他人(周
囲)の評価」という社会規範が弱体化する事を意味する。
 水が低いところを流れるように、人間も楽な方、楽しい方へと流
れていきがちだ。
 価値観の多様性の獲得、絶対的な正しさの放棄は、従来それを主
張していた人達の想定していた範囲を離れ、適用されてしまうに至っ
た。
 麻薬、売春、暴力、あらゆる反社会的行為を当事者が自己正当化
し易い環境になってしまった。
 ここまで大袈裟なものでなくとも、歪んだ個人主義と相乗効果を
得、公共心の乏しい人間が増えた。

 他人(周囲)の目という社会規範が弱体化された事によって、人
間は良い意味でも悪い意味でもより自由になった。
 宗教を持たない社会は、絶対的な善・悪の意識がどうしても弱く
なる。
 人間は自分を悪の側には置きたくないもので、どのような悪人も
自分を正当化している。
 欲望の趣くままに行動し、他人に迷惑をかけても、それを理屈を
つけては正当化する。
 この正当化の作業が非常に容易になってしまったのが、現在の日
本なのだ。

 「価値観の平等化」は、「社会規範の弱体化」をも単純にもたら
してしてしまった。
 価値観の押し付けのマイナスの効用にしか目がいかず、プラスの
効用の存在にすら気付かなかった末路だ。
 価値観に絶対的な優劣がない事など当り前で、どのようにそのバ
ランスをとっていくのか、それが社会規範なのである。
 単純に優劣をなくしたのでは、規範自体も弱まってしまって当然
ではないか。

 今更、特定の価値観に絶対性を持たせるような規範には戻れない。
 今後は、価値観に相対的優先順位を持たせるような規範を模索し
ていくべきだろう。
 それには、社会システムの本質に根ざしたアプローチが必要とな
る。
 今までこの本質から逃亡してきた形が「絶対性」なのだから、そ
れが通用しなくなった今、根本から形を組み直さなければならない。
 社会とは何かを根源的に見つめていかなければ、永遠に「絶対的
優位性」と「絶対的平等」との間のシーソーゲームになってしまう。
 それは印象と感性の表面的な奪い合いでしかない。
 


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